2013年11月、ドイツで開催された「ベルリン・ドイツ大会」にゲスト講師として招かれ、 インタビューを受けました。
誰でも、できると思います。
同時に、誰にでも、できるものではないとも思います。
レベルがあって、誰にでもできるプレイバックシアター(PT)と、
誰にでもは、できないPTがあると思います。
たとえば、誰にでもできるPTは、
今日、初めてきた人、今日、初めてPTに出会った人でも、
ステージの上で、すばらしいアクティングができること。
そういう意味で、私はPTは、誰でもできると思います。
一方、たとえば、福島に行って、大変な状況のところで、
PTをするとしたら、それは、誰にでもは、できないPTです。
トレーニングを積んで、知識があって、そして、
何が危険なのか、何に気をつけなければいけないのかを
知っている人だけができるPTもあると思います。
PTは、とても広い人を対象にした手法だというのが私の考えです。
私は、子どもを育ててきました。子育てをしているとき、
自分の都合や自分のことは置いて、子どものためだけに
いろんなことをしたり、願ったりできると思っていました。
でも、それは、子どもとの関係だから成り立つことと思っていました。
そのようなことは、他人との間では、成立しないものだと思っていたのですが、
PTをやっているとき、それに似た感覚がありました。
誰かのストーリーを聞いて、そこでPTをしているのは、ある意味、その人のために私たちが演じている。
その人のために、話を聴いている。
そのような、私が差し出しているという感覚でやっているのですが、
終わってみると、私のほうが、何かをもらっているという感覚になります。
それは、子どもといるときの感覚にとても近いものです。
私は与えているのではなくて、与えてもらっている。
何かを差し出していること以上に、何かを差し出されている。
そういう感覚というのは、PT以外では、私の生活にありません。
それは、とてもいい感覚。
それは、とても、とても幸せな感覚です。
だから、私はPTをやっているのかもしれません。
公演をして、お客様が来て、ストーリーを語ってくださいます。
そこで、笑ったり、泣いたりして、ストーリーを通して、皆が繋がる。
うまくいけば、お客様は、とても喜んで帰っていく。
劇を見て楽しむこと、ある意味、それは、娯楽ですね。
そうしたなかで、「これは何のためにやっているのですか?」と聞かれます。
「娯楽のためですか?」と聞かれると、
「う~ん、娯楽のためですけど、ただ娯楽のためだけではないのです」
そう言った後に、どう説明すればよいのか、わからない難しさがあります。
生きていてよかったなあと思うものが、公演の後に残るのです。
ただ「おもしろかった」、「いい劇だった」ということだけではない何かが残っていきます。
極端に言うと、ストーリーが難しいものや悲劇のストーリーの場合、終わった後に、
「でも、まあ、生きていくっていうのは、そんなに悪いことではないよねえ」って
思えるものが後に残るのです。
娯楽だけでもないし、ただ人の話を聞いて癒されたというだけでもない何か。
そういう、もっともっと大きいもの、大きな枠の中にあるもの、
どこにも区分しきれない、入り込めないようなものがあると
私は思います。
20年ちょっとやってきて、この後のことは、
PTが日本中、いろんなところにあるといいなと思います。
もっと、たくさんの人が、やれるようになって、
もっと、たくさんの人が、ストーリーを語れるようになっている。
PTがそんな特別のものではなく、
どこにでもあるようなものになるといいなというのが私の夢でしょうか。
私は、PTを持ってきて、紹介した世代だと思うのです。
私が紹介して手渡した人が、PTをもっとやるようになって、
その人たちが、また次の人に手渡して、その人がまた次に、というふうに。
もっと流行るといいなあ、メインストリームになっていけばいいなと思っています。