プレイバックシアター50周年記念インタビュー 宗像佳代
The First Generation Speaks: Kayo Munakata
プレイバックシアター50周年を記念するインタビューシリーズの第4回目に、校長の宗像佳代が出演しました。日本でプレイバックシアターを始めたときのことやスクールの歴史などを語っています。このイベントははCentre for Playback Theatreによって主催されており、プレイバックシアターの創始者であるジョナサン・フォックス、ジョー・サラスも出演しています
下記から、YouTubeにてご覧ください。
2025年7月19日 The First Generation Speaks: Kayo Munakata
【インタビュー 日本語書き起こし】
05:42 司会者:宗像佳代さんをご紹介する
佳代:画面上にたくさんの方を拝見して、感動している。主催者の方、運営チームの方に深く感謝。英語でのインタビューは緊張するが、ベストを尽くす。
06:38 司会者:プレイバックシアターとの出会いはどのようなものでしたか?
佳代:1992年11月。ジョナサンの週末ワークショップ。44歳で企業研修の講師としての仕事をしていたころ。未来のキャリアも延長線上にあり、人生設計も確立していると感じていた。PTに出会って、全く違う世界に突然飛び込んだと感じた。ロジカルで生産性や効率性を問う世界で生きていたので、プレイバックシアターの世界は全く異なったものだった。好奇心満々で、もっと知りたい、もっとやりたいと思った。けれども日本で実践している場はなく、ワークショップのひとつも、トレーニングもPT公演も皆無の時代だった。というわけで一大決心をすることになる。NY校に行くしかなかった。NYに行って、ジョナサンとジョーからPTの基礎を学ぼうと思った。そこから無謀な旅が始まった。
まず、絶頂期にあった講師の仕事を休むことにした。ビジネスパートナー達は、あきれていた。「フリーランスの身で1か月も休暇をとるなんて、どんなにリスキーなことか。理解してのことなのか。ビジネス案件も失うし、顧客も失うことになる」。もちろん、わかっていた。けれども、気持ちは変わらなかった。
次に家族を残していくことを考えた。当時、夫とこどもが2人いて、娘の亜紀は13歳、息子は15歳だった。その年齢の子どもを1か月も残していくというのは尋常ではなかった。とくに、30年前の日本にあっては、母親がそんなに長い間、子どもから離れることは一般的ではなかった。私の母親は怒って、私に言った。「あなたはとても我儘。自分のしたいことをして、こどもを犠牲に。ほったらかしにしようとしている」。私の母は、保守的で日本古来の価値観を持っている人だった。私の決心は揺るがなかった。最終的には、私の家族、夫と娘と息子は私の気持ちに寄り添ってくれた。今になって当時を思い出すと、自分のまわりに居た人達への感謝の気持ちが募る。彼らの理解と寛大な姿勢がなかったならば、私の将来への道は閉ざされていたに違いない。
というわけで、NY校のサマープログラムに1か月間参加した。1993年の夏、レベル2のコースを幾つか、そのままレベル3に進級した。英語もわからず、内容もわからず、とても厳しい学びだった。レベル3の最後に、ジョナサンは生徒のインタビューをした。ジョナサンにどうだったか、とくにレベル3はどうだったかと質問された。私の返事は「よくわからず、消化しきれてない。もしかしたら、もう一度レベル3を学び直したほうがいいかもしれない」すると、ジョナサンは、「それはいい考えだ」と答えた。つまり、私はレベル3を落第したということで、翌年、もう一度、レベル3を受けなおすことになった。そのころの私は無知そのもので、何もわかっていなかった。
1993年の夏の1か月、6か月後1994年の冬に、そのまた6か月後の1994年の夏に、また6か月後の1995年の冬と、毎回数週間、家族を残してNYに行った。そして1995年の夏にやっと卒業した。1995年の卒業生クラスは世界各国から集まった仲間でとても充実していた。クラスメイトたちとストーリーを語り、アクティングして、笑い、泣いたものだった。香港のベロニカはよく歌い、踊っていた。バーモントのジェニファーは創作課題でかわいい人形をつかって発表していた。スイスのカリンは、森で出会ったリスのストーリーを語り、シカゴのリズはアクティング演習を教えてくれた。同級生たちは、現役のプレイバック実践者であり、リーダーだった。そのなかで、私だけが、何もしらず、何もできない存在だった。思えば、そんな私は同級生たちにとって厄介者だっただろうし、ジョナサンとジョーもそんな私を含めての指導は苦労したに違いない。しかし、全員が私を輪の中に入れてくれていた。優しく、忍耐強いひとたちに囲まれて幸せだった。というわけで、なんとか卒業した。将来の設計図もなにもないまま、とにかく前に進もうという気持ちが残っていた。
17:20 司会者:学び始めた頃のジョナサンとジョーについて、何か覚えているか。
1993年の夏、ニューヨーク校で指導を受けて印象的だったのは、2人のスタイルの違い。同じ質問をしても、同じ状況にいても、2人の答え方、教え方が異なっていた。そして、それぞれが素晴らしく納得のいくものであった。そして2人自身がその違いを尊重しているように見えた。
1998年から、1年、2年おきにジョナサンが日本校で指導した。その間、ホテルに滞在するのでなく、宗像家で過ごした。ジョナサンは、なんとか日本語で夫と話していた。スクールがオフの日には何回かジョナサンと夫は野球の試合に見に行った。あるとき、野球の試合中にファールボールが2人の座席に飛んできて、そのボールを持って帰ってきた。ボールを手に入れて、とても興奮していた。(この時、NYオフィスにいるジョナサンがズー
ム画面上でそのボールを見せてくれた。ずっとオフィスに飾ってあった、ということ)ジョナサンが夫に「今年は日本、来年はアメリカ、というよう1年ごとにボールを持っていることにしたらどうだろうか」と提案していたのが微笑ましい。もちろん、私の夫は寛大なので、ジョナサンがずっと持っていていいと伝えた。こういう交流が友情を深めたのはもちろん、それ以上に、ずっと忘れられない楽しい思い出となって残っている。
司会者:ジョナサンは、こういうこと、覚えているか?
ジョナサン:はい、もちろん。指導クラスがない期間に日本のあちこちを旅行した。佳代と茂さんと、美しい景色をたくさん見てきた。素晴らしい思い出になっている。
22:55 司会者:劇団プレイバッカーズの歴史について
佳代:1994年に櫻井靖史さんたちと月例PTワークショップ、夜の2時間コースを始めた。最初のイベントのときのテーマは、「私のはじめて」だった。1人目のテラーは初めて自力で自転車に乗れたときの体験を語った。それは、いのちゃんで、彼は、その時以来、ずっと一緒に活動してきている。熱心なメンバーたちが集まって、今の劇団プレイバッカーズができた。そのころ、PTといえばワークショップを意味していて、公演といいう概念は、なかった。日本のどこにもPT公演というのがない時代だった。よって、プレイバッカーズで公演をしようという提案には強い抵抗が生じた。「ストーリーを語れたら、演じられたら、それで充分。満足。舞台を目指しての稽古はしたくない」。その当時、舞台公演への道は厳しいものだった。今となっては信じられないかもしれないが、最初の舞台を実現するまでに、なんと3年の時間を要した。とても、辛抱強く、そして、時間をたくさんかけて、最初の公演が実現した。こんな風にして、劇団プレイバッカーズが今のカタチに近づいてきた。現在は、9人の団員がいて、そのうち、7人はスクールの卒業生という豊かなカンパニーになっている。
司会者:今でも、コンダクターとして舞台に立つか。
佳代:折に触れて。というのも、私は半分引退しているし、劇団には素晴らしいコンダクターが何人もいるので、私がコンダクターになる必要性は少ない。だから、アクターとして立ち、アクティングを楽しめるようになった。
27:00 司会者:日本文化は、どのようにPTに影響しているか。
佳代:日本独特のPTがあるように思い、それについて説明する。そもそもは、ジョナサンが語った内容に遡る。ジョナサンが、PTを構築していくうえで日本の古典芸能から影響を受けたと語っている。
どんな影響かというのを話する前に動画を紹介する。2つの要素に注意して観てほしい。この動画に表れている日本の文化的な要素、とくにプレイバックシアターに影響を与えたと思われる特徴を二つ取り上げると、ますシンプルであること。そして型があること。
・シンプリシティ。茶室には、最低限のものしかない。床の間には掛け軸があり、花が活けられている。それぞれの無駄のない美しさをもって調和をもたらす。
・型があること。動作に型がある。小さな入り口がある。どんな人でも頭を下げて入る。小さな入口から入り、日常から非日常に向かう。
・動画再生(ドキュメンタリーフィルムについて司会者から紹介)
シンプリシティ、PTのなかでのシンプリシティについて。コンダクター、ミュージシャン、アクター、それぞれがシンプリシティを追求する。それぞれが雑多な要素を排除して、本当に必要な本質を際立てる。
コンダクターのインタビューは短く、選び抜いた質問のみする。テラーをガイドする。テラーが本当に語りたいこと、見たいと思っている内容を浮き出させるような質問だけをする。短くてシンプル、的をえている。ジョナサンがあるとき、コンダクティング演習として、インタビューを3分で終える、という課題を扱った。
ミュージシャンは、余分な演奏を避ける。3日前に北海道の小学校でいじめ防止プログラムとしてPT授業をしたとき、素晴らしい体験をした。3年生9歳の女の子の物語。「ある朝、お母さんが結ってくれた髪型がとても気にいった。大好きな髪型で学校に行った。すると、友達がその髪型は似合ってない、と言った。とても悲しくて、教室で、その髪型を自分で解いてしまった」。その時のミュージシャンは北海道のピグマリオンのメンバーだった。はじめの幸せな場面を掻き立てるような演奏から始まった。そのあと、しばらく、ずっと、演奏しなかった。そして、物語のほとんど最後、そのクライマックスで、深い悲しみを表す美しい音楽を奏でた。テラーも、友達も先生も、もちろん私たちも深く感動した。中盤に音がなかったこと、無音があったことで、肝心のクライマックスシーンの悲しみがより引き立ち、際立つ舞台となった。ずっと演奏するのでなく、ほんの限られた部分にだけ演奏した。
素晴らしいミュージシャンである彼女を紹介すると、スクール6期の卒業生、佐藤結花さん、ファンと呼んでいる方である。卒業にあたって彼女が書いた卒論の内容は、池坊生け花の美的形式とPTについてである。そのなかで、「少なきは意味かえって深し」という言葉をとりあげている。彼女がすばらしいミュージシャンであるのは、こういう価値観を備え持っているからではないかと考えている。
40:00 司会者:著書「プレイバックシアター入門」について教えてください。
佳代:1996年に(2006年の間違い)日本語でプレイバックシアター入門を出版。香港のエディが英語に翻訳することを強く勧めてくれた。その英語から中国語版ができ、ロシア語、ブルガリア語、韓国語へと発展した。レベル4に進級した生徒は、卒論を書く必要がある。そこまでのリーダーシップ過程を考えたとき、卒業論文を書くうえでの参考文献として日本語のものがないことが問題だった。入手できる文献は、全て英語だった。そこで、この本の執筆を思い立った。ジョナサンやジョーの著作から、最も基本で、もっとも重要だと思われる記事を日本語に訳した。今日、スクールで一緒になったウクライナの友人から、ウクライナ語に翻訳したいと相談があった。ほかの言語にも翻訳されることを願っている。
43:00 司会者:SPTJの歴史について。
佳代:ジョナサンが1998年に創設した背景について。ある組織がずっとジョナサンを年に一度招聘し続けていたが、あるとき、その契約が切れた。ジョナサンが来日しなくなってしまった結果、学び続けるためにはNYで学ぶ言語能力が問われた。多くの日本人が英語では学べないということと、もっとPTを学び続けたいという多くの人の熱意が実って、ジョナサンが日本に戻ってくることになった。1998年のことだった。その後、継続的に運営され、27年たった今までに、レベル4を7回、レベル3を11回、レベル2を200回、提供してきた。ここまで絶えることなく運営してくることは簡単ではなかった。ジョナサンが彼の著書, Beyond Theatre,に書いている。「佳代の卓越したビジネスセンスと日本の学びに対する真摯な姿勢によって、どのクラスも定員いっぱいになっていた」。もうすぐ、発汗されるIPTNジャーナルにSPTJの進展についての記事が出る。小森亜紀が書いていて、私は、その原稿を最近読んだ。
46:15 司会者:グローバルなPTとして、どういう未来を予想しているか。
佳代:日本は極東にあり、西洋からは遠い位置にある。ある意味、孤立している。私自身もそうであり、私にとって、グローバルは、せいぜいアジア内のこと。劇団プレイバッカーズが2003年に静岡で世界大会を主催し、世界への扉が開いた。それ以降、2005年シンガポール、2009年台湾、2013年香港、2017年日本の三原、2025年フィリピン、とアジア大会に繋がった。私にとっては、アジア内での活動がグローバルな広がり。
48:15 司会者:これまで体験した国際大会、交流のなかで、特別な思いではあるか。
佳代:先ほど伝えたように、一番の思い出となると、2003年の日本の国際大会。そこから国際交流が始まったから。海外から100人、国内から100人の参加者がいて、深く交流できた。
司会者:PT人としてのエッセンス、もっとも大事な特質は何だと考えているか?
佳代:難しい質問。昔、ジョナサンがリーダーシップ、たぶん2期生を教えたときに使った言葉があって、それがずっと心に残っている。難しい単語、Altruism、利他主義。彼がその言葉を使ったとき辞書で調べた。Acts of Serviceの精神。見返りを期待せずに、プレイバックすること。与えるという行為のなかに幸せを感じられること。その意味は複雑であり、それを成し遂げるのは難しいけれど、ジョナサンが教えてくれたその言葉に惹かれている。
51:00 ブレイクアウトルーム
司会:日本人でここに参加している方からの声を聞きたい。プレイバッカーズ発足当時から活動している人、どなたか? (エリちゃん、退席中)
司会:どなたかほかに?
ヤス:プレイバッカーズが生まれたときのこと。佳代と一緒にNYのバッサーカレジで学んでいた。コースの途中で休日があり、マンハッタンに行った。高層の高級なホテルで飲み、語り合っているうちに、帰国したら、劇団を作ろうという話になった。
ジョナサン:飲んだ、ってことだけど、どれくらい飲んだのかな?
佳代:いっぱい。。。
57:23 司会:ジョナサン、何か付け加えることがあるか
ジョナサン:今は引退しているけれど、素晴らしい思い出がたくさんある。SPTJの運営という意味では、とても一生懸命に働いた。参加する生徒さんは、みなとてもやる気に満ちていた。数々の素晴らしい卒業式もあった。ほかにもたくさんの思い出がある。とくに感謝をしているのは、佳代さんとプレイバッカーズ団員で、彼らは、PTのために多大な貢献をしてくれた。佳代自身が語ったとおり、彼女は最初からずっと創造的に活躍してきた。
そして、佳代が最初にNYにきて、また来て、そしてまた来て、そしてそのたびに、家族を置いてきていることをわかっていた。佳代だけでなく、PTに興味をもった人たちが世界中からNYに来ていて、彼らも佳代と同じように家族を残してのこと。それを思うと、PTの学びのために彼らを家族から引き裂いてNYに連れてきているという自分の役割に罪悪感がある。
1:00:25 司会者:佳代さん、ほかに加えて言いたいことはあるか
佳代:時間がどれくらいあるかにもよるが。アクティングをよりシンプルにするためにプレイバッカーズが工夫していることについて。アクティングのなかでも、とくに、忍者、選ばれてない役者について。
私たちのリハーサルでは、忍者が振り返りトピックになることが多い。このストーリーに忍者が必要なのか、この場面に忍者が必要か、という問いが常にある。ここでは忍者不要、ここでも忍者不要。忍者が登場したストーリーを忍者ロール抜きで演じてみる。そこから新たな視野が開ける。よりシンプルにすれば、より効果的になる。肝心なところにのみ忍者が現れる。余計なことは一切しない。
ほかの例。すでに2人の役者が選ばれており、それ以上何の役も必要ないと判断すれば、他の選ばれてないアクターは最初から最後まで舞台に出ない。先週、ある学校で公演をしたとき、テラーとある特定の人とのトラブルが語られた。舞台には3人の役者がいたが演じたのは2人のアクターだけだった。3人目の役者は、何かの役を演じることもできたが、そのときの役者は舞台に出ないことを選んだ。2人だけでの舞台は、とても洗練されていて、深い感情を表現しており、見事だった。3人目の役者は出ないと決断をして、それが最大限の貢献となった。少なく、シンプルに。
司会者:それは難しいこと。ステージにたっているアクターは、もっとできることがあるのじゃないかと思って、何かやる努力をしないといけないのかと思ってしまう。観客席からの視点と舞台上でのものが違う。
佳代:カンパニーメンバーと確認するのは、舞台に上がるのは、テラーのためである。アクターの自分たちが輝くためではない。自分たちの素晴らしさをひけらかすための舞台ではない、ということ。とても難しいことではあるけれど、努力している。
司会者:参加者の皆さんの声を。どなたか。
エイミー:PTに出会って、まだ3年。佳代さんと亜紀は、いつも、テラーが一番大事と教えてくれる。その姿勢に感銘を受けている。自分がテラーになったときも、敬意をもって演じてくれて感動した。虫明先生にも感謝していて、3年前にあおばプレイバックシアターを作ってくれた。佳代が伝えてくれたシンプリシティに、とても共感している。
司会者:佳代、コメントあるか?
佳代:エイミーが現れたことが素晴らしい。東北地方はPTの空白地帯だったので、彼らに期待している。
エディ:東北はPT空白地帯だったので、PTを始めるのは大変だった。佳代と亜紀と若い世代が関わって、新しい劇団をつくれることになった。これからは、若い世代が興味を持ってくれたらいいと思う。若い彼らがPTに参加することで、インクルージョンやダイバーシティが叶うようになってほしい。PTは、とても効果的。
司会者:日本には、どれくらいの劇団があるのか?
佳代:私が掴んでいる情報では、20余り。ただ、私が知らないグループもあるだろうから、すくなくとも、という意味。
オレシア:ウクライナから戦争が始まったころに来て、現在日本に住んでいる。佳代と亜紀とプレイバッカーズにとても感謝している。出会った瞬間からサポートしてくれて、ウクライナのためにチャリティ公演を一緒にやってくれてた。今は、日本にいる仲間でプレイバックシアターマヴキという劇団を作っている。そのうちの3人が今日から3日間スク
ールに参加して「リチュアルと音楽」をで学んでいる。この出会いは特別だし、今ここで感謝を伝える機会を得て、嬉しい。戦争がはじまったときには、ウクライのプレイバックスクールあてに寄附をしてくれたことも、ここでお礼を伝えておきたい。念願のジョナサンにも日本で会えて良かった。こんな奇跡に感謝している。
ファビ―:佳代を待っていた。頑張って、という気持ちを伝えたかった。佳代はフィリピンの次世代も大切にしてくれて、なんどか指導にきてくれた。フィリピンのプレイバックシアターの基盤を作ってくれた。佳代のほかに、ベロニカ、ジョナサンにも感謝している。佳代がPTとは何かという指導を正式なカタチで提供してくれた。これからの在り方を模索しているけれど、基盤にあるのは、佳代からの学び。
パビル:シンプリシティについて聞けて感謝している。卓球でも同じことがいえると思う。小さなシンプルなタッチが勝利をもたらすことがある。シンプルに、ということ、心に響いた。私がいるイスラエルの劇団では、コンダクターのインタビューは長くなりがち。というのも、テラーが感情的になってしゃべり続ける。そして、エネルギーが落ちていくのがわかる。シンプルにやりたいと思うが、劇団メンバーに共有して実現するのは難しい。いつか日本に行きたい。
佳代:今の発言で思い出したことがある。私たちのモットー、スローガン。「芝居は短く、テンションは高く」
ジョナサン:東北で実施されている興味深いプロジェクトについて聞きたい。佳代と亜紀が関わって、JSTからの助成金で3年にわたって、実施されているもの。科学技術系の部門からPTのサポートを得ているという特別の例。若い科学者たちがストレスを軽減し、自分への理解を深めることを目的としている。詳しく紹介してほしい。
エディ:JSTは、社会における孤独や孤立を防ぐために、演劇的手法を取り入れるプロジェクトに助成してくれている。私は、PTの効果を研究リサーチしている。とくに大学生、それ以上の高等教育において。多様性、平等、包括性が叫ばれるが、それを今実現、達成するのは簡単ではない。そんななかで、PTは、それらのことを成し遂げられると考えている。PTがなぜ、特別なのか、効果的なのかも、研究している。他の演劇手法とPTを比較研究して、PTが特別であることを評価している。お互いのストーリーを尊重すること、そこにPTの評価が根差す。佳代と亜紀、そしてジョナサンも交えて研究できていることが幸せです。PTは、人類社会の未来にとって、とても重要な存在だと考えている。
アイリーン:9年前に、佳代からリーダーシップクラスでの指導を受けた。ジョナサンからも後半学ぶ機会だった。それに参加したときに私が願っていたのは、オーストラリアのプレイバックシアターの構造に多様性を持ち込むことだった。白人比率を減らして、もっと多様なグループにしたかった。そして、9年後の今、それがかなっている。佳代がクラスで教えてくれたPTに関する考え方をずっと忘れずにいる。それをオーストラリア、パース、他の地域にも広めたい。
ルル:高等教育におけるメンタルヘルスのためのPTについて聞きたい。臨床的なアプローチは効果的でない。PTがセラピーになったという人もいるので、大学における精神的な健康のためのPTに興味がある。
佳代:残念ながら、いい答えがすぐには見つからない。きちんとした答えを得たければ、2日、3日とかけて、トレーニングに参加する必要があるのでないか。私はこの部分での専門家でないので、お答えできず、申し訳ない。
佳代:何人かの人が亜紀のことを語っていたので、亜紀が何か発言したらどうか。
1:24:05 司会者:亜紀、いかが?
亜紀:何人かの人が私のことを話してくれた。母親である佳代も私について語った。私のほうから、思い出している気持ち、そのころのことを話したい。佳代は、彼女がプレイバックシアターを始めた頃の話をした。そのころ、私は、13歳か14歳、十代のはじめだった。そして、ジョナサンが先ほど、彼がプレイバック界に起こしてしまっていたことに対する罪悪感について語った。それらを聞いて思うこと。1人の少女として、また、残されていた家族の1人として、当時の私は自分の人生を楽しんでいた。(ジョナサン、画面にでてご満悦。拍手。ハート印を送信)もしも今罪悪感を持っている人がいたら、あるいはこの先そうなるかもしれない人がいたら、どうか、あなた自身が人生を楽しんでほしい。そして、残された私たちも人生を楽しむ。自分の信念を追求していくのは素晴らしいことだと信じている。
司会:最後の言葉を
佳代:最後になってしまったけれど、大切なこと。ベロニカについて。アジアでの第一世代といえばベロニカ。彼女がもたらしたことにとても感謝している。
司会:プレイバック・アズ、という劇団名について。AZをアルファベットだと思っていたが、違うかもしれない。劇団名の由来を教えてほしい
佳代:AZ,というのは、AからZまですべて、という意味合い。すべてのストーリーをお迎えする、という気持ちでこの名前にした。
司会:ブルガリアでは、AZは、私、という意味。